社会医療法人玄真堂のご紹介

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理事長コラム

当院理事長である川嶌眞人の随筆集です。月1のペースで更新しております。
理事長プロフィールについてはこちらをご覧ください。

【2017年】
全日本病院学会に参加して(大分合同新聞夕刊 2017.10.10)

 金沢市において9月中旬、全日本病院学会(神野正博会長)が開催された。大分県病院協会会長として過去10年以上にわたって毎年参加している学会である。
 2025年には団塊の世代が75歳以上となり超少子高齢化社会を迎える日本において、社会保障システムをどう改革するか活発な議論がなされた。社会保障財源に充当するとされた消費税増税が延期され、年々高度化、多様化していく医療介護に対して、質の向上と安全確保、経営の効率化を図り公共性の高い医療サービスを継続していくためには何をすべきかも、真剣に討論された。
 学会テーマは「大変革前夜に挑め!今こそ生きるをデザインせよ」。当院からは10人が参加し、発表・討論に加わった。特に院長は病院のあり方委員会の一人として、「2025年の医療をデザインする」の演題で力強く発表した。
 医療が社会的共通資本として安心安全を保証することで日本経済の安定に貢献するとともに、医療費の一定程度の自然増を認めていかなければ、高齢化や医療の進歩についていけず、持続可能性が失われてしまう。その論理は大変説得力があり、人々に共感を得る内容であった。
 医療介護費の過度の抑制は将来の希望を奪い、その結果人々は不安解消のために貯蓄に走り、経済発展にも大きな支障を来すということである。

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一節截の合宿を終えて(大分合同新聞夕刊 2017.9.1)

 去る8月19、20日と宇佐市の禅源寺で恒例の一節截(ひとよぎり)の合宿が行なわれ、今後の一節截についての話し合いもあった。一節截は一休禅師が好んだ尺八の”先祖”として知られており、戦国から江戸時代にかけては武田信玄ら武将たちの間でも愛好されていた。だが後に「解体新書」を翻訳出版した中津藩の前野良沢を最後に、次第に廃れて今日の尺八に代わってしまっている。
 一節截を前野良沢が練習し、いとこの簗(やな)次正に伝授し彼がさらに中津藩の医師神谷潤亭に伝えたことで中津の医師たちを中心に広がっていた。その一節截が中津市立村上医家史料館に4本、簗家に1本発見され、それを機に本徳照光氏がこの笛を復元し、7年前から「一節截の会」が発足して当院で練習を積み中津城のひな祭り等様々な催事で演奏している。笛の指導をしていただいている尺八の師範・伊藤正敏氏による素晴らしい音色のために尺八愛好家たちも数人この合宿に参加した。
 最初は吹き方も分からなかったが、千葉県柏市の研究家相良保之氏が当院を訪れ「糸竹初心集」という入門独習書をくださり、当会の細田冨多氏が翻訳しそれを中心に江戸時代の楽譜や吹き方を手探りしながら練習を重ねてきた。全国の愛好家の会が来年11月には当院で開かれる事が決まっているので今回の合宿には一層の励みとなっている。

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フロリダの国際学会で講演(大分合同新聞夕刊 2017.8.4)

 米国フロリダ州ネイプルズ市で6月末に開催された国際潜水・高気圧環境医学会での招請講演のため成田空港から飛び立った。私の発表は1972年以来、続けてきた骨髄炎治療の成績についてだった。
 骨髄炎は発症すると再発を繰り返し、数十年間も膿汁を排出し、時には切断に至る整形外科領域では最も治療困難な疾患である。私は九州労災病院で局所持続洗浄療法に使用するチューブを開発し、72~81年にかけて256例、開業後も773例を治療している。この治療法は国内のみならず国際的な専門書や雑誌にも掲載されている。
 前述の256例の局所持続洗浄療法のみの治療による再発率は11.7%。過去16年間の371例は高気圧酸素のみの治療だと再発率32.8%であったが、再発した101例に局所持続洗浄療法を併用すると再発率を4%に抑えることができることを発表した。特に近年は洗浄液に東京医科歯科大学の真野喜洋名誉教授が考案したオゾンナノバブル水を使用したところチューブの閉塞も解消し治癒率もさらに向上している。
 講演後の夕食会では名誉会員として”眞野・川嶌学術賞”を授与した。その時にオゾンナノバブル水の製造工場が東日本大震災で破壊されたがようやく復興した事を話し、横笛で「花は咲く」を演奏したところ、全員起立で万雷の拍手を頂き大いに感激した。

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米百俵と人材育成(大分合同新聞夕刊 2017.6.22)

 わが母校東京医科歯科大学歯学部の同窓会があった去る5月20日のこと。同大学の学祖島峰徹のゆかりの地で先生についての講演を依頼され、新潟県長岡市など旧長岡藩周辺を巡る事が出来た。
 長岡藩は戊辰戦争の折に官軍との激烈な戦いで廃墟となったが同藩の支藩の三根山藩から米百俵が送られてきた。戦後の復興を担った執政小林虎三郎はこれを食料に回さず国漢学校を開校し人材育成に回す事を提案し、その結果この学校からは多くの人材を輩出した。中でも小金井良精は大変な苦労の末、東京大学の解剖学の教授となり多くの長岡藩出身の人々を東大の教授として育てた。
 島峰も同様に極貧の中で東大に入学したが、学資が続かず停学寸前で日本石油初代社長となった隣人の内藤久寛から援助を受けた。卒業後はベルリン大歯学科に留学、さらにハーバード大など世界各地で歯科の教育課程を見学し、わが母校の前身東京高等歯科医学校の初代校長となった。
 私たちはこの方々の旧跡をたどりながら島峰の父恂斎の墓を訪ね、その墓地で中津出身の横井豊山の墓も参拝することができた。長岡藩は耕読堂という塾を創設し、100年以上にわたり人材育成のため全国から教授を集めた。その中に横井豊山も塾頭として招請されていた。長岡藩による人材育成の奥の深さを知る事ができた旅だった。

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「第25回マンダラゲの会」を開催(大分合同新聞夕刊 2017.5.9)

4月中旬のこと、私が会長を務めるマンダラゲの会が大江医家史料館で開催された。〝温故創新〟の理念の下、中津の歴史を訪ね学びながら新しきものを発見、創造することを目的として2005年から活動を続けてきた。
 今回は「上善水の如し」の言葉で有名な黒田官兵衛が築城した中津城の天守閣の有無について中津地方文化財協議会副会長太田栄氏が講演された。かねて天守閣の有無については中津市において議論の的となっていたが、多くの歴史研究者によって確実に天守閣があったという史実が発見されたということであった。
 当院の川嶌眞之院長はマイクロ・ナノバブル水医療への応用に関して講演。国東市のナノプラネット研究所との共同研究でマイクロナノバブルの発生装置を開発し、それを介護施設の利用者から了解を得て使用すると、従来の介護浴の5.3倍をはるかに超す37倍もの血流量が認められたことを報告した。介護施設利用者の血流改善や浮腫軽減などに役立てられそうだ。
 さらに東京医科歯科大学の故真野喜洋教授らとREO研究所が共同開発したオゾンナノバブル水を難治性潰瘍や化膿性骨髄炎などに応用した経緯も説明。その結果、著名なる殺菌効果と急速なる組織の修復作用が認められ、今後の医療に大いに応用できることを期待すると締めくくった。

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島峰徹とわが母校(大分合同新聞夕刊 2017.4.10)

 我が母校東京医科歯科大学の整形外科開業医部会で去る2月18日、学祖である島峰徹初代学長についての講演を依頼された。母校の前身、東京高等歯科医学校は1928年、新潟県長岡市出身の島峰徹を初代校長とする日本最初の国立高等歯科医学校として誕生。さらに44年には医学部を併設、国立東京医科歯科大学として御茶ノ水駅前に創立された。
 島峰徹は長岡藩医の息子として幼少からの秀才ぶりを注目されていた。だが父親が53歳で早世したため母しげの手で育てられ、困窮のどん底の中から東京帝国大学に入学した。食費も学費も払えない事を見かねた近隣の内藤久寛(後の日本石油初代社長)は学資金のみならず、卒業後もベルリン大学医学部歯学科への留学費も援助した。
 その後、ドイツで歯科医師となって最新の歯科医学を学び数多くの論文を発表。さらに米国ハーバード大学などで歯学教育の実情調査をした後、8年の留学を終えて14年に帰国し、翌年に永楽病院院長(後の東京大学分院)となった。28年には東京高等歯科医学校校長に就任し、東大をはじめ多くの歯科大学に人材供給を支援した。なんと私の母の母校東洋女子歯科医学専門学校にも病院長をはじめ多くの人材を送り、創立を支援していた。わが母校について調査するうちに分かった事で不思議な因縁を感じた。

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和田寿郎先生をしのんで(大分合同新聞夕刊 2017.3.13)

 去る2月4日、心臓移植のパイオニアである札幌医大名誉教授・和田寿郎先生の七回忌に招かれて講演をする機会を得た。心臓を含む臓器移植は今日、あたり前になっている。だが1968年、わが国最初の心臓移植手術を手掛けた和田先生においては、さまざまな困難に直面していた。
 和田先生は、私が代表理事を務めている日本高気圧環境・潜水医学学会の創設に関わられた。73年から今日に至るまで、ほぼ毎年、43年にもわたって国際学会で発表するというきっかけも与えてくださった。94年、私が会長を務めて中津市で開催した日本高気圧環境医学会では、ご出席されただけでなく励ましのメッセージまで頂いたことは、今でも鮮明に思い出される。
 2005年、中津市医師会主催の学術講演会で講演された折には、医師会の先生方々とも和やかに交流していただき、その人柄の温かさを皆で感じることができたひとときであった。12年の一周忌の際には周子夫人より請われ、学会を代表して書いた弔意文が配布されたことも思い出深い。お弟子さんらが和田先生の厳しさと優しさを語り合っていたことも、とても印象的であった。
 このたび7回忌において、偉大な指導者であり、パイオニア精神あふれる先生についての感銘と、尊敬の念をお話することができ大変光栄であった。

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学術総会を終えて(大分合同新聞夕刊 2017.2.7)

 明治大学の玉置雅彦会長主催による第5回マイクロ・ナノバブル学術総会が昨年12月、開催された。
 10年前、東京医科歯科大学の同級生・真野喜洋名誉教授が中心となり、研究会として発足し、私も当初から参加している。次第に出席者が増え学会となり、盛大に開催されるようになった。この学会の面白さは、日本最先端のマイクロ・ナノバブル技術の研究成果を知ることにより、医学領域を越えた最先端技術と医療の連携ができることを理解できる点であり、非常に興味深い学会である。
 現在、日本では骨髄炎の標準治療となっている局所持続洗浄療法に、当院ではこのマイクロ・ナノバブルを応用した。すると骨髄内の凝固血栓や組織片などにより引き起こされていたチューブの閉塞や洗浄液漏れトラブルの減少が顕著だった。近年では人工関節置換術後の感染症の持続洗浄療法にも応用されている。
 また国東市のナノプラネット研究所と共に開発したマイクロ・ナノバブルの介護浴装置を当院の老人保健施設で車椅子対応型足浴装置として整えた。すると従来の介護浴の10倍を超し8時間以上も持続する血流が得られ元気回復などに非常に役立つことが分かった。
 昨年の学会では九州大学の細胞培養系への応用など、他にも最先端の講演があり大変勉強になった。

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【2016年】
藤野玄洋と石川清忠(大分合同新聞夕刊 2016.12.19)

 去る3日、4日の2日間、筆者が代表理事を務める第51回日本高気圧環境・潜水医学会が、東京の日本医科大学において宮本正章会長主催の下、開催された。高気圧医学と潜水医学に関するトップレベルの研究や講演、発表があり、非常に質の高い、内容の濃い学会であった。
 学会が開かれた日本医科大学・橘桜開館で、同大学の歴史について展示が行われていた。同大学の源流である済生学舎、私立東京医学校、そして大学創立に大きな役割を果たしたのが、1871年に開設された中津医学校附属病院の藤野玄洋の門人であった、杵築出身の石川清忠である。1876年、長谷川秦により済生学舎という医学専門学校が開設され、9千人もの医師が明治時代に誕生した。野口英世など世界の医学に貢献した著名な医師たちが含まれている。
 石川清忠は、中津医学校で藤野玄洋から物理、化学、解剖学などの初歩を学び、済生学舎に入学した。卒業後、長谷川の片腕として医師の養成に重要な役割を果たした。しかし1903年、専門学校令により済生学舎の存続は不可能となり、その年に廃校宣言を出すに至った。
 学び場を失った600人の医学生のために、石川は私立東京医学校を創設し、次いでこの医学校は日本医学専門学校となり、今日の日本医科大学と継承されている。

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マンダラゲの会と温故創新(大分合同新聞夕刊 2016.11.07)

 中津市立大江医科史料館周辺で10月下旬、私が会長を務める第24回マンダラゲの会があり、寺町の西蓮寺では講演会を開催した。
 島田達生大分大学名誉教授は田原淳がテーマ。田原の大発見が解剖学・心臓学の歴史を変えたという業績を伝えた。淳は中津の医師・田原春塘の養子になり東京大学を卒業後、ドイツのマールブルク大学に留学。数多くの解剖から、世界初の刺激伝導系の発見をした。この発見により心電計やペースメーカーなどが発明されたのは周知の事実であり、ノーベル賞級の発見であった。
 次いで、この刺激伝導系を現代の最先端医療に応用した佐竹修太郎葉山ハートセンター副院長による「不整脈に対する最新治療~高周波ホットバルーンカテーテル」。最も危険な不整脈の一の原因となり、脳梗塞など命に関わる合併症を引き起こす心房細動の研究をした佐竹氏は、16年をかけて高周波ホットバルーンカテーテルを生み出し米国で大成功を収めた。そして今春、日本でも保険適用になるという画期的な治療法を開発した。
 佐竹氏は既に700例の治験を行っており、臨床レベルでは田原淳と同様にノーベル賞級の業績と言える。彼はこの治療法を自宅の物置小屋でただ一人、開発した。その努力には頭が下がる。この「温故創新」とも言える2人の講演に感嘆の声が上がっていた。

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藤野玄洋について(大分合同新聞夕刊 2016.10.11)

私が会長を務める中津地方文化財協議会の定例研修会で今夏、藤野玄洋についての話をする機会を得た。玄洋は1840年、中津市京町に生まれた。父親は藤野東海という町医者であった。玄洋は広瀬淡窓の咸宜園に入門し、敬天思想を学んだ。58年、尾形洪庵の適塾に入門し蘭学を学び62年には長崎養成所でボードインに外科学、眼科学を学んだ。
 その後、長洲の奇兵隊の軍医となったという説もある。そして71年、中津医学校の開設に伴いその付属病院長となった。しかし、財政上の事情から同医学校の維持が困難となり、当時の馬淵清純町長(中津町)を通じて大分医学校設立建白書を県に提出し設立に専念した。80年、大分医学校は正式に設立され、現在は県立病院となっている。
 玄洋は77年、西南戦争の時、伊藤博文の依頼により、傷病者収容のために下関に「月波楼医院」を設立した。だが戦争が早期終結したため、妻ミチが料亭として経営し大繁盛して「春帆楼」と名前も変えた。伊藤博文など明治維新の元勲たちが頻繁に出入りし、95年には日清講和条約の交渉の場となった。春帆楼はフグの専門店として東京や広島、名古屋、別府などに支店を持つほどになった。
 一方の玄洋は医術に専念し大坂で開業。最後は中津で死亡。夫婦の墓は中津市下小路の安全時にある。

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ハーバード大学の学生たちに中津を案内(大分合同新聞夕刊 2016.9.6)

 サマー・イン・ジャパン2016地域プログラムの一環として8月上旬、広津留真理代表理事から依頼されハーバード大学の学生たちとその関係者たち17人を中津に招待した。
 東九州龍谷高校の生徒たちとの交流イベントの後、古民家レストラン朱華にて私が講師を務めるランチョンセミナーに出席してもらった。
 前野良沢から福沢諭吉に至る中津藩の蘭学の歴史をスライドも交えて英語で説明し、その後、龍谷高校の生徒たちも合流して福澤旧居や中津城も英語で案内した。
 福沢諭吉が一万円札の顔になっている事は知っていても、どんな人物だったかはほとんど知らなかったようである。江戸時代の封建制度が崩壊し、明治維新という近代化が怒涛(どとう)のように押し寄せる中で、欧米を訪問して自らの進む方向を示し、西洋文明を積極的に取り入れた。更には日本を近代国家へと進める人材育成を目的として慶応義塾を設立した。多くの原書を購入・翻訳・出版したほか新聞なども発行し、日本人の思想形成に大きな影響を与えた人物であることを伝えた。
 私は福沢諭吉が訪れたホワイトハウスをはじめライデン大学なども訪れたことも交えて話した。彼らにも感銘してもらえたようで、ガイドのしがいがあった。

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国際学会で学術賞を授与(大分合同新聞夕刊 2016.7.12)

 米国ラスベガスで6月初旬に開催された国際潜水・高気圧環境医学会に出席した。ペンシルベニア大学のクリス・ランバートソン教授により創始された本学会に、私と東京医科歯科大学の眞野喜洋名誉教授は1975年からほぼ毎年参加してさまざまな論文を発表してきた。初期の学会は潜水病や骨壊死(えし)の研究発表を主体としていたが、20年ほど前から高気圧酸素治療の演題も半数を超えるようになった。例えば糖尿病性の難治性潰瘍、突発性難聴、脳卒中、脊髄神経疾患、一酸化中毒、スポーツ障害などさまざまな分野で研究発表が行われる。今は出席者も増え、世界中の研究者が発表する国際的な学会となっている。
 この学会は2014年に亡くなった眞野名誉教授を顕彰するため、昨年、若き科学者や医師の研究を奨励する六つ目の国際学術賞”ヤング・サイエンティスト賞”を創設した。世界への貢献を認められた証しであり、日本人として初めての名誉ある学術賞である。
 私は今年の本学会の夕食会で、潜水漁民の潜水病を研究しているカリフォルニア大学の若き研究者グループにこの賞を授与するプレゼンターを努めた。故眞野名誉教授が愛した桜に思いをはせ、しの笛で”さくらさくら”の演奏を添えて学術賞を差しあげた。天上の彼もさぞや喜んでいるであろうと思う。

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中国から届いた治療専門書(大分合同新聞夕刊 2016.6.18)

 1993年以来、毎日のように中国の河南省から王興義先生とその一族の方々が当院に研修で訪れるようになった。日本の骨髄炎の標準的治療として整形外科の専門書や米国の専門書にも紹介されている、私が考案した川嶌式局所持続洗浄療法の治療法を勉強するためである。
 王先生は河南省と北京に骨髄炎治療の病院を設立し、北京ではさらに200床を超える骨髄炎専門の病院も建て、中国全土から多くの患者さんが来院しているという。
 こうした取り組みに対して、当院は中津ロータリークラブと共に治療用機器のセットを贈るなどの支援活動を続けてきた。
 そしてこのたび、これら中国の病院で理事長を務める王先生とご子息の王偉院長らを編集主幹として、難治性骨髄炎を伴った骨折の治療法などを解説した専門書が北京から届いた。私が開発した洗浄療法や高気圧酸素治療なども取り上げられ、大変光栄に思う。
 この書籍は、交通事故などで骨折を合併した難治性の骨髄炎の治療に対して、洗浄療法を応用、さらに別の手法も取り入れながら、極めて多くの難治性の症例を治療した実績が記載されている。
 困難な時期を乗り越えた王先生は、中国では骨髄炎治療の第一人者となり、他にも5冊の専門書を執筆している。そのご努力には頭の下がる思いである。

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倉成龍渚、雲華上人と頼山陽(大分合同新聞夕刊 2016.2.26)

 筆者が会長の中津地方文化財協議会で1月、神戸輝夫大分大学名誉教授が「雲華(うんげ)上人と倉成龍渚(りゅうしょ)」と題し講演をされた。
 豊後竹田に生まれた雲華は叔父である日田の高僧釈法蘭の下で成長し、詩学と仏教学の教えを受け19歳の時、姉の嫁ぎ先である中津の正行寺に跡継ぎに迎えられた。雲華は才能を見込まれて京都の高倉学寮に籍を置き、教学と講演に励む学僧であった。29歳の頃には博多の亀井南冥(なんめい)やその一族に学び漢詩の添削を受け、詩作と書画の活動を本格的に開始した。雲華は広島の頼春水とその子山陽などとも交流した。大谷大学に残されている雲華の講義録を見ると、真宗教学以外の一般の仏教学にも深い学識を持っていたことが分かる。その学問と教養の深さから日田の広瀬淡窓らとも交わった。頼山陽は1818年に淡窓の元を訪ねた後、雲華と共に日田から山国を経由して中津を訪れ、耶馬渓図巻記を描いている。
 ただし耶馬渓を最初に紹介したのは、1794年「耆闍崛山記(ぎしゃくつせんき)」を著した倉成龍渚。中津藩の進脩館教授で、雲華も師事していた儒学者である。倉成が耶馬渓の自然美を描いた詩を頼春水に示したことが、山陽の耶馬渓訪問のきっかけになった。
 雲華や倉成龍渚、頼山陽が耶馬渓を天下に広める重要な貢献をしたことを知っておきたい。

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浄喜寺を訪ねて(大分合同新聞夕刊 2016.1.26)

 中津市の村上医家史料館が1982年3月8日に菊池次郎館長(村上記念病院理事長)のご尽力で開館して以来、約2千点の資料が収集され、ウォルフガング・ミヒェル九州大学名誉教授らによって解読されている。昨年10月から今月11日まで開催された「医は仁術」(北九州市立いのちのたび博物館)にも村上家の資料が多く展示されていた。
 この博物館を昨年末に見学した折、村上医家の初代・村上宗伯の出身母体である浄喜寺(行橋市)にも足を運んだ。村上家の遠祖は村上天皇の第6皇子源良国とされる。良国から数代を経た良成が仏門に入り蓮如上人の直弟子となり、浄喜寺を建立。2世良祐、3世良慶と名乗った。
 良慶は顕如上人の直弟子となり、石山合戦では織田信長方の大軍を向こうに大奮戦し、顕如の子の教如上人の危機を救い軍功を立て法院大僧都に任ぜられた。細川忠興が帰依した良慶には寺領300石が寄進され、小倉城築城の際は総監督の大役を仰せつかった。
 郷土史家と共に訪ねた浄喜寺はまるで城郭のような風格ある大本堂であった。村上水軍の拠点ともいわれる由縁の井戸も存在していた。この寺の5世蓮休の三男良道(後の宗伯)は大坂の古林見宜に医を学び、中津で初代の医者として開業した。そして現在もその村上家は医家の家系として13代に及び、連綿と受け継がれてきている。

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【2015年】
国際学会で草の根交流(大分合同新聞夕刊 2015.12.16)

 私が理事長をしている日本高気圧環境・潜水医学会が11月中旬、前橋市の群馬大学で開催された。連動して同大学で開かれたアジア太平洋潜水・高気圧環境医学会は2013年に中国で開いたのが最初。私が主催者となった今回のアジア太平洋の学会に向けては昨年、中国・鄭州で準備会をした。中国のほかオーストラリア、台湾、インド、日本の代表者たちが集まる国際色豊かな話し合いである。
 発展途上国ではまだまだ欧米や日本のように基礎研究も十分に行われていない。そのため高気圧酸素治療の実際や潜水病の基礎、臨床の情報交換を―と、日本での学会開催になった。
 アジア太平洋の学会当日、米国からは国際潜水・高気圧環境医学会理事長のジョーンズ氏、ヨーロッパからはスウェーデンのカロリンスカ大教授のリンド氏も出席した。そして翌日には中津市で国際セミナーがあり、両氏のほか中国・上海の上海交通大、九州大先端医学研究所、宇宙航空研究開発機構(JAXA)、大分大などからさまざまな分野の専門家たちが、大変興味深い研究を次々に披露した。
 アジアや欧米の友人たちが和気あいあいと交流する姿を見ていると、われわれ民間の医学者や科学者が草の根で交流することで、世界平和の道に少しでも貢献できるのではないかとの思いを、あらためて深くした。

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地域医療構想について(大分合同新聞夕刊 2015.11.9)


 厚生労働省が「地域医療構想策定ガイドラインに関する検討会」(2015年3月)でまとめた構想に基づき、一般病院における入院病床数は最大20万床削減されることが大きく報道された。大分県や各市町村単位でもこの構想について協議なされている。
 県内では団塊の世代が75歳以上となる25年までに病床数22%削減、特に県北では35%削減という構想が検討されている。9月に札幌で行なわれた全日本病院学会で、厚労省高官は「病床数の削減を優先させるのではなく、各地域の実情に合わせた医療の持続可能な病床数を検討すべきだ」と言っていた。
 しかし現実には、「削減ありき」になってしまうのではないかと危惧している。団塊の世代が75歳になる25年には、がんや心筋梗塞、脳梗塞、大腿骨頚部骨折(だいたいこつけいぶこっせつ)や脊椎圧迫骨折などにより、むしろ病人は増え続け、35年頃にそのピークを迎える事になりそうだ。
 そうした見通しにもかかわらず急性期病床、慢性期病床とも減らすようなことがあっては、再び医療崩壊を招き、患者のたらい回しや高齢者の切り捨て医療といった事態も予測される。
 国の膨大な借金という財政難から計画された病床削減と推測されるが、第一に国民の安全安心な医療・介護の体制づくりが必要ではないかと考える。

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東日本大震災の被災地を訪ねて(大分合同新聞夕刊 2015.10.15)


 今夏、仙台市で開催された宮城県臨床整形外科医会で最新の高気圧酸素治療に関する講演をしたのを機に、東日本大震災の被災地を再び訪ねた。
 向かったのは、津波で壊滅的状態となっていた東松島市のREO研究所のオゾンナノバブル工場。千葉金夫社長は東京医科歯科大学の故真野喜洋名誉教授と共に、オゾンナノバブルと酸素ナノバブルという300種類の細菌を殺菌できる先端的な液体を製造した。
 殺菌力は塩素の約30倍ながら、毒性は全くない。糖尿病性難治性潰瘍や骨髄炎の局所持続洗浄療法などに広く応用され、最先端医療として治験が進んでいる。九州大学の大平猛教授が主宰するマイクロ・ナノバブル学会も毎年開催されるようになった。
 壊滅状態だった工場はようやく生産再開までこぎ着けて、医療のみならず養殖岩ガキのノロウイルスの殺菌、仙台笹(ささ)かまぼこの製造過程における殺菌など、食品部門でも広く活用されている。しかしながら工場はいまだに5mのかさ上げ工事が続けられ、完全な復興には至っていない。
 この工場の近くで、宮城県有数のブランドとして知られている白謙かまぼこ工場では、食中毒予防の殺菌にナノバブルが使用されている。ここで販売中の笹かまぼこを購入し職員たちとおいしさを味わえたこともうれしかった。

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モントリオールの学会(大分合同新聞夕刊 2015.7.29)

 去る6月18日から20日までカナダのモントリオールで国際潜水高気圧環境医学会が開催され、「減圧性骨壊死(えし)の治療」「化膿(かのう)性脊椎炎に対する高気圧酸素治療」の論文を当院川嶌眞之院長らが発表した。
 カナダ、アメリカでは糖尿病性難治性潰瘍の増加に伴い急速に高気圧酸素治療装置の台数が増え、患者が切断を免れる、または創傷の治癒が早いと評価されて保険適用対象になり、今はそれが世界的な流れとなっている。そんな中で最先端の高気圧酸素治療の基礎的な研究が数多く発表され、内容の濃い学会になった。
 最終日の夕食会。恒例の学会表彰では五つの学術賞に加え、若き科学者に対する「ヤングサイエンティスト賞」の授与式があった。日本高気圧環境・潜水医学会の前任の理事長だった故・眞野喜洋東京医科歯科大学名誉教授の名前入りの賞で、私が提案者であることから栄誉あるプレゼンターを仰せつかった。
 「水滴は岩をも穿つ」という言葉がある。若い時はやりがいがないと思われる未知の仕事や研究を指示・指導され戸惑うことも多い。しかし、それを拒まずコツコツと続けることで思わぬ世界が広がってくることがある。これはそんな地味な研究に勤しんでいる若い科学者を応援・支持するために、今年から同学会に新設された賞である。

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大坂と中津を結ぶ医学史(大分合同新聞夕刊 2015.6.27)

 神戸のポートピア国際会議場で5月下旬に開催された第88回日本整形外科学会学術総会(会長・吉川秀樹大阪大学教授)において、「大坂と中津を結ぶ医学史」と題して講演する機会を得た。
 大坂と中津を結ぶ医学史を考えてみると実に多くの中津人が大坂にお世話になっている。江戸時代にあっては大坂で中津の人々は教育され、育成され、大きく成長していった。大坂はその意味で、中津の人材育成の中心地ともいえる役割を果たしていた。
 例えば13代続いている村上医家の初代良道は、大坂の古林見宜(ふるばやしけんぎ)に医学を学んだ。1640(寛永17)年に免許皆伝を受け、村上宗伯と改名して中津市諸町に開業し、中津藩医・村上家の開祖となった。村上医家史料館には免許本2冊が展示されている。
 1871(明治4)年には、中津医学校取立方となった大江雲沢が華岡医塾の大坂分塾「合水堂(ごうすいどう)」に入門し、華岡準平に学んだ。大江医家史料館には華岡青洲の画像や華岡家からの手紙が保存されており、乳がんの手術図や腫瘍の所見図が展示されている。
 さらに、緒方洪庵の適塾は医学史上に大きな影響を与えることになった中津人達11人を育て、藤野玄洋(大分医学校の創立)、田代基徳(整形外科の開祖・田代義徳の養父)ら、多くの医人を輩出することになった。 

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合水堂顕彰碑除幕式に出席して(大分合同新聞夕刊 2015.5.20)

 去る4月25日、日本医史学会開催の直前に、大阪市中之島の大阪市中央公会堂前に建立された合水堂(がっすいどう)顕彰碑の除幕式があり、出席した。
 合水堂は1804年、世界で初めて麻沸散(通仙散)という全身麻酔薬を使って乳癌の手術に成功した華岡青洲の弟、華岡鹿城(良平)によって1816年にこの地に設立された医塾である。
 鹿城は麻酔薬をよく使いこなし、外科手術の上でも妙技の評判高く、和歌山県紀の川市名手(なて)にある本家「春林軒」にも劣らない評価を得た。2代目南洋(準平)も同様に評判が良く、中津の医家大江一族からは雲沢、春亭、久、忠庵の4名と阿部原和泉が入門している。中津市立大江医家史料館には、華岡家からの3通の手紙と青洲の画像や医訓を込めた漢詩、乳癌の手術図を展示している。
 顕彰碑は華岡家春林会と日本医史学会、第29回日本医学会総会によって建立された。除幕式にあたり日本医史学会の小曽戸洋理事長、春林会の五十嵐慶一会長らがあいさつをした。
 青洲の「活物究理」(患者を活かし、科学的にものごとを極める)という思想、人々の命を助ける医術を極めるという哲学は、今日においても新鮮である。大江雲沢の「医は仁ならずの術、勤めて仁をなさんと欲す」の源流はここにあったのである。

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前野良沢の自然思想(大分合同新聞夕刊 2015.4.13)

 昨年は黒田官兵衛ブームのおかげで多くの観光客が中津城を訪れた。中には3階に展示してある「前野良沢と中津藩蘭学」を見て、「解体新書」の主役が良沢であったことや良沢が中津藩医であったことに感動し、便りをよこす人も増えてきた。
 ドイツ人クルムスの原著「ターヘル・アナトミア」の翻訳書が「解体新書」であり、日本の近代医学・科学の源流であることはよく知られているが、著者名に杉田玄白、中川淳庵などが記載されているために良沢は脇役にされていた。しかし良沢の長崎留学時代の恩師であった吉雄耕牛の序文や杉田玄白の「蘭学事始」を読むと、翻訳に当たって中心的役割を果たしたのは良沢であることがよく分かる。良沢が著者として名前を残すことを拒んだ理由については、辞書もない時代に「不完全な翻訳で出版することに耐えられない」とか「名利を求めず」と長崎留学の途中、大宰府天満宮に参拝し誓ったとか様々な説が存在する。
 良沢は「虚心石を友とす」という自然思想の持ち主。「人間が自然界の一部を支配したりできると非常に傲慢(ごうまん)になり、独力でしたように思いこみ、自分の力は自然の一部という謙譲の心がなくなるのではないか」という精神にあふれた人であった。東日本大震災後、4年を経てあらためて良沢の思想の深さと大きさを感じる。

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中津城と奥平昌高侯(大分合同新聞夕刊 2015.3.9)

 NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」は大変な評判を取り、中津城にも大勢の観光客が押し寄せてきた。中津城内には中津ロータリークラブが生んだ、日本人として2人目の国際ロータリー会長を務めた向笠広次氏の遺品や中津藩蘭学の展示などに加え、歴代奥平藩主の書画や遺品などが展示されており、多くの観光客の目に留まったようである。
 歴代藩主の中でも中津城5代目の奥平昌高侯の遺品は数も多く、豪放な書や名品のかぶとなど一見に値するものが多い。昌高侯は国際的にも著名な蘭学大名として知られ、シーボルトの江戸参府日記やオランダ商館長の日記にも数多く登場している。
 ヴォルフガング・ミヒェル九州大学名誉教授によって、中津市歴史民俗資料館分館の村上医家史料館叢書が中津藩蘭学の史料として研究が続けられている。その中の「人物と交流1」には昌高侯が、シーボルトや商館長と頻繁に交流していたことが記載されていて興味深い。
 昌高侯はフレデリック・ヘンドリックというオランダ名までもらっており、シーボルトが江戸に滞在中は毎晩のように訪問し、オランダ語で会話をしている様子が生き生きと記載されている。また“中津辞書”と呼ばれる和蘭辞書と蘭和辞書も自ら刊行し、蘭学を日本中に普及させることにも大きな役割を果たしている。

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田原淳と温泉(大分合同新聞夕刊 2015.2.3)

 前回の「灯」のマチュピチュ訪問記で、南米アンデスには元気な高齢者が多い長寿村があると書いた。心残りは、時間の関係でマチュピチュ村にある温泉に入り損ねた事である。
 温泉の湧出量日本一の大分県では、現在は九州大学病院別府病院と名前が変わっているが、1931年に九州大学温泉治療学研究所(温研)が発足し、温泉について国際水準の研究を積み重ねてきた。ここで長年研究を続け、温泉学の第一人者となった矢永尚士九大名誉教授の著書「温泉研究と私」には、温泉の歴史や効用、楽しみ方、リスク管理とさまざまな知識が分かりやすく書かれている。
 中津の田原春塘(しゅんとう)の養子となった田原淳(すなお)は東京大学医学部を卒業後、ドイツに留学。その時、心臓拍動メカニズムの解明に重要な役割を果たすことになった田原結節を中心とした刺激伝導系を発見し、今日の心電図やペースメーカーの基礎を築いてノーベル賞受賞者に匹敵する研究者となった。矢永先生は70年に温研に赴任した時に、所長室の写真を見て初代所長が田原淳である事を知ったそうである。
 一昨年、別府で開催された「日本温泉気候物理医学会」で「高気圧酸素治療」について講演した時、あらためて温泉の効用と高気圧酸素治療の効用が類似しており、健康維持と病気の治療に有効であることに驚いたものである。

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【2014年】
マチュピチュとクスコでケーナを吹く(大分合同新聞夕刊 2014.12.25)

 アルゼンチンのブエノスアイレスで開催された国際高気圧環境医学会の招請講演を依頼されたのを機に、ペルーに立ち寄った。その折、前野良沢の吹いていた「一節截(ひとよぎり)」に極めて類似したアンデスの笛「ケーナ」を携え、私たちのケーナの先生であるリチャード氏と、彼の友人でインカの末裔であるガイドを頼りに、世界遺産マチュピッチュにたどり着いた。
 標高2400メートルに造られたインカの空中都市はスペイン軍に見つかることなく無傷のまま1911年、ハイラム・ビンガムによって発見された。その精巧な石造り建造物と周囲の山並みや段々畑を息をのむ思いで見つめてしまい、ケーナを吹くことも忘れてしまうほどであった。
 マチュピチュ村で食べた食事は豊富な野菜と果実、ヨーグルト、チーズ、豆類、トウモロコシ、インカ米とモルモットの丸焼きであった。ここからエクアドルに入った所のビルカバンバが、コーカサスと並ぶ長寿の村であることは京都大学の家森幸男教授の調査で既に明らかになっているが、アンデス山中の運動が長寿に拍車を掛けたようである。
 遺跡見学の後はインカの首都クスコに戻り、現地のケーナ吹きと大いに音楽交流を楽しむことができた。自然宗教、言葉、顔貌、楽器などが蒙古民族と先祖を同じくすることを喜び合った。

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一隅を照らし一隅に輝く(大分合同新聞夕刊 2014.11.18)

 去る11月8日、鹿児島市で開催された第49回日本高気圧環境・潜水医学学会(有村敏明会長)にて、「一隅を照らし、一隅に輝く 高気圧医療をめざして」と題する代表理事講演を行った。
 1972年、筆者が九州労災病院で高気圧酸素治療を始めた頃は、一酸化炭素中毒やガス壊疽(えそ)、潜水病などにしか行われていなかったが、その後内外の学会などの豊富な検証を経て、多くの疾患が保険適応となった。当院でも骨髄炎、糖尿病や閉塞(へいそく)性動脈疾患に伴う難治性潰瘍、脊髄神経疾患、壊死(えし)性筋膜炎、スポーツや外傷に伴う腫れと痛みを特徴とするコンパートメント症候群、潜水病、脳梗塞など多くの疾患を治療してきた。
 しかし高気圧酸素治療は、診療報酬が欧米の3分の1から10分の1という低さに加え、ほとんどの入院が包括支払いになったため、無料で行っているという現状になり、多くの医療機関から治療装置の撤退が続き、治療に重大な支障を来すようになってきた。関西や四国で発生した潜水病が東京や九州にまで送られたりする事態となっており、政府にも陳情を続けている。
 このよう中で母がお世話になった京都の天台宗青蓮院門跡東伏見慈晃門主から表題のようなお言葉を賜り、我々も“水滴をうがつ”ようなさらなる努力を続ける必要性を強調して講演を終えた。

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一節截と簗次正(大分合同新聞夕刊 2014.10.16)

 NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の影響で多くの観光客が中津城に押し掛けてくるようになり、中津市では嬉しい悲鳴が上がっている。ドラマは回を追うごとに人気が高まっているが、人気の訳の一つに時代考証に真摯に向き合っていることもありそうだ。その一例は、時折出てくる縦笛が一節截を使用していること。
 中国から百済を経て伝わった雅楽尺八が次第に進化して鎌倉時代に一節だけの一節截となり、室町、安土桃山時代には尺八といえば一節截が吹かれた時代があった。特に集大成者として大森宗勲が知られている。蘭学の鼻祖として「解体新書」の出版に大きな功績を残した中津藩の前野良沢は、伯父の医師宮田全沢に廃れかかった芸能を稽古するように勧められ、宗勲流の名手となったとされている。
 全沢の四男は1755年、簗(やな)家の養子に迎えられ簗次民と名乗った。次民の子利秀の養子になった正田孫左衛門の三男は次正と名乗り、弓馬槍剣の奥義を窮め中津藩の指南役となった。次正は良沢と親交があり、築地の中津藩中屋敷で高山彦九郎を交えて一節截の練習に励んでいたことが記録にある。
 簗家にはこの一節截が残されており、私たちも「一節截の会」を結成してその復元に成功し、毎月練習に励んでいる。優しい音色をぜひ聞いていただきたい。

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ロコモ チャレンジ(大分合同新聞夕刊 2014.9.9)

 日本整形外科学会は今、人類が経験したことのない超高齢社会・日本の未来を見据え、組織を挙げて「ロコモ チャレンジ」に取り組んでいる。
 「ロコモ」は正式名が「ロコモティブシンドローム」。筋肉や骨、関節、軟骨、椎間板といった運動器の障害によって、歩行や日常生活に何らかの障害を来している状態の総称である。ロコモチャレンジはロコモに負けない日本をつくるとして学会が掲げているスローガンであるが、メタボに比較するとまだまだ世間の認知度は低いようである。
 日本人の平均寿命は男性約80歳、女性約86歳と世界のトップレベルといわれている。一方、健康寿命は男性約70歳、女性約74歳で、病気になり自立度の低下や寝たきりになる期間が男性は10年、女性は12年もある。いわゆる要支援、要介護になる主な原因は、運動器の障害23%、脳血管障害22%、認知症15%である。
 学会では七つのロコチェックを提唱している。片足立ちで靴下が履けない、家の中でつまずいたり滑ったりする、階段を上がるのに手すりが必要、やや重い物を持つ家の仕事が困難、重さ2キロ程度の買い物をして持ち帰るのが困難、15分くらい続けて歩くことができない、横断歩道を青信号の時間内に渡り切れない、などの症状があれば、運動器疾患の予兆の可能性もあるので要注意である。

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セントルイスの学会にて(大分合同新聞夕刊 2014.8.8)

 去る6月17日、米ミズーリ州セントルイスで開催された国際潜水・高気圧環境医学会に出席し、当院の川嶌眞之院長、小杉健一医師と「骨髄炎に対する局所持続洗浄療法におけるオゾン・ナノバブルの応用」とスポーツや外傷などが原因でおこる「コンパートメント症候群に対する高気圧酸素治療の応用」という演題で発表してきた。
 学会初日には早朝から夕方まで、「難治性創傷に対する高気圧酸素治療」のテーマで、高気圧酸素治療の基礎と臨床、職員教育、患者教育、保険問題など徹底した研修がおこなわれた。米国人の教育熱心さをあらためて感じた一日であった。
 3人に1人が肥満者という米国では、メタボリック症候群、特に糖尿病の増加が大きな問題になっており、脳血管・循環器疾患のみならず、足部の難治性潰瘍も増加している。かつては治療に難渋して切断された症例も多くあったそうだが、高気圧酸素治療が極めて有効であるということから保険適応になって、高気圧酸素治療装置は急激に増加したという。
 19世紀初頭、トーマス・ジェファソン大統領が、当時フランス領だったセントルイスを購入したことから西部開拓の玄関口になったこの町には、ゲートウェー・アーチがシンボルとして存在していた。米国のたぎるようなパイオニア精神がみなぎる町であった。

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ほたるの里 友枝を訪ねて(大分合同新聞夕刊 2014.7.4)

  去る6月5日、母ミツヱの生まれた福岡県築上郡友枝の“ほたるの里”を、職員たちと訪ねた。昔は中津市内でもあちこちに見られた蛍も、よほど郊外に行かなければ見られなくなってきた今日この頃である。
 この地域の人々はまず清流を保存し、蛍のすめる環境を整えたのみならず、カジカガエルを人工ふ化して放流している。川沿いを歩くとまずカジカガエルの声を聞き、やがて暗闇の森の中から次々と光の帯が現れてくる。その光の帯は次第に点滅の間隔を整え、打ち合わせているかのように同調して移動してゆくのである。
 蛍は交尾をし、産卵してから10日でふ化し、幼虫となって9カ月から2年かけてカワニナという貝を食べ、上陸して40日して、前蛹(ぜんよう:さなぎに成る前)になり、さらに10日してさなぎになる。そして羽化後、わずか3~5日間だけ空中を飛び回り発光し、交尾をするのである。この数日間の恋の瞬間が幻想的な光の乱舞であることを考えると、大自然の神秘に大いに感動してしまう。
 江戸時代は廻船問屋だったという別所家の長女であった母ミツヱは、一族の期待を担って、日本で最初の公認の東洋女子歯科医学専門学校に1927年、2回生として入学した。免許取得後、最初に開業した地が友枝であることを考えると、この蛍の光は誠に感慨深いものであった。

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竣工式と国際フォーラム(大分合同新聞夕刊 2014.5.29)

 去る4月12日、当院の新病院竣工を記念して、高気圧医学国際フォーラムが開かれた。特別講演者は国際潜水・高気圧環境医学会のピーター・ベネット理事長(米デューク大学名誉教授)、アレックス・ソバキン・米ウィスコンシン大学公衆衛生学博士、柳下和慶東京医科歯科大学准教授。3人とも高気圧医学・潜水医学の世界で著明な演者であり、聴き応えのある講演ばかりであった。
 中でもベネット理事長は1981年に686メートルという深度潜水の実験に成功し、人間の耐圧性の限界に挑戦した国際的なパイオニアである。80年にはレクリエーションダイバーの安全を守るためのDAN(海洋レジャー安全協会)という国際組織を設立し、急性潜水病にかかったダイバーたちを救出してきたことでも知られている。
 米国では増加中の糖尿病で足部壊死(えし)した患者を、足部の切断から守るために高気圧酸素治療装置が毎月、造設され、多くの病院で創傷治療センターが創設されているという。翻って日本の現状を考えると、多くの国公立大学病院から大型高気圧酸素治療装置が撤去され、民間の同装置も減少が続いている。
 その理由は高気圧酸素治療の診療報酬が米国などに比べ、10分の1と極端に低いために装置の維持管理ができないという。深刻な現状である。

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京都にて一節截を吹く(大分合同新聞夕刊 2014.4.26)

  「解体新書」翻訳の中心となった前野良沢は蘭学の研究の傍らに「一節截(ひとよぎり、一節切とも書く)」という尺八の一種を吹いていたことはよく知られている。良沢の大森宗勲流の一節截は中津藩士簗次正(やなつぐまさ)、神谷潤亭に伝わり、現在、中津市内で6本発見されている。
 筆者が主宰するマンダラゲの会では「中津一節截の会」という部会を作り、本徳照光氏が復元した一節截を、尺八師範伊藤正敏氏による指導を受けながら当院にて3年間、練習を重ねてきた。去る3月26日、一節截研究者として高名な相良保之氏主催による「一節切コンサート」が一節截とゆかりの深い京都の正法寺にて開催されたのを機に伊藤氏と出席し、演奏してきた。
 さすがに全国から集まっただけあって名演奏家が多く気恥ずかしい思いであったが「伊勢おどり」など江戸時代の楽譜を翻訳して吹いたところ、その吹き方でよろしいという相良氏のお墨付きを得た。鎌倉、南北朝に始まり、室町、安土桃山時代に全盛を極めた一節截が現代によみがえり、京都の高台にある古刹(こさつ)で演奏されたことに一同感動したようである。
 後醍醐天皇や伏見宮も吹かれていたということで、亡き母が東洋女子歯科医学専門学校時代にお世話になっていた青蓮院門跡の東伏見慈洽名誉御門主の御仏前に1本献上してきた。

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真野喜洋名誉教授の逝去(大分合同新聞夕刊 2014.3.22)

 去る2月15日、私の直前まで日本高気圧環境・潜水医学学会代表理事を務めていた真野喜洋東京医科歯科大学名誉教授の訃報に接し、まさに胸のつぶれる思いがした。
 真野先生は東京医科歯科大学の同級生で、学生時代にはボート部のリーダーとして、また体育会の会長としていつもスポーツマンらしい爽やかな議論のできる学友であった。学生時代から梨本一郎先生の下で潜水医学の研究を続け、さらに海底居住の実験などにも参加し、30メートル、50メートル、100メートルと深海潜水の新しい展開などについても研究協力をしていた。
 1972年、九州労災病院に赴任した私は天児民和院長の指導の下、整形外科の仕事をしながら高気圧医療と潜水士の骨壊死の研究をするようになり、真野先生と同じ医療の領域に踏み込むことになったという不思議な縁を感じた。73年のバンクーバーの国際高気圧環境医学会で遭遇して意気投合、同じ領域の共同研究をやることになった。その後、41年間、毎年のように行動を共にして国際学会で共同発表するようになり、私達のライフワークとなった。
 真野先生は日本を代表する高気圧医学の第一人者となり、たくさんの著書や論文は世界中に知れ渡っている。その偉大な友人を失ったことは痛恨の極みである。真野先生のご冥福を心よりお祈りする。

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宇都宮氏の居城を訪ねて(大分合同新聞夕刊 2014.2.15)

 昨年末、中津地方文化財協議会の太田栄副会長のご案内で、黒田官兵衛が1588年、中津城内に呼び寄せて謀殺し、合元寺(赤壁)で家臣も討伐した宇都宮鎮房の居城・城井谷(福岡県築上町)を訪れた。
 宇都宮氏はもともと下野国(現在の栃木県)を本拠としていたが、源頼朝の命で九州で勲功を挙げた信房が1185年ごろに木井馬場(福岡県みやこ町)に入部したことから始まり、4代目の通房の時には豊前国最大の武士団に成長。6代目の冬綱のころには北朝方として活動し、豊前の守護に任じられた。大内領国時代にもその地位を保ち、親族の佐田氏は宇佐郡代、野仲氏は下毛郡代を世襲し豊前一帯を支配していた。
 黒田官兵衛は1586年、秀吉の九州征伐の軍監として馬ケ岳(福岡県行橋市)の城主長野三郎左衛門、時枝(宇佐市)の城主時枝平太夫、宇佐(同)の城主宮成吉右衛門を降伏させたが、1587年に豊前一帯に国人一揆が起こり、宇都宮鎮房は黒田長政の大軍を岩丸山上(築上町)で撃退した。一揆の原因は宇佐市の禅源寺の年代記録に記されているが、検地が実施されたため先祖伝来の土地を奪われるという懸念を生じたからだともいわれている。
 訪れた城井谷は狭く、深く、幾つもの支城が広がっており、堅固な城であったことを実感した。中津城跡の長政が鎮房を埋葬した場所には後に城井神社が建立された。

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日本マイクロ・ナノバブル学会にて(大分合同新聞夕刊 2014.1.13)

 微小な気泡「マイクロバブル」「ナノバブル」の研究は、大分県では国東市にナノプラネット研究所を構える大成博文氏が時代の先端をを走り、カキやホタテの養殖などで既に実用化。血流改善効果もあり、リハビリテーション領域でも、当院と共同研究が始まっている。
 日本マイクロ・ナノバブル学会は、代表理事が東京医科歯科大学の真野喜洋名誉教授から、産業総合技術研究所の高橋正好研究主幹の交代。昨年12月には東京で学術総会を開催し、医療分野だけでなく農業、工学分野でも多くの研究成果が報告された。
 オゾンナノバブルは殺菌力、洗浄力、組織修復力、保存力が認められることが真野名誉教授のグループの研究からも明らかになってきており、当院も整形外科領域への応用研究を続けている。今回は「骨・関節感染症に対するオゾンナノバブル水を用いた持続洗浄療法」「難治性潰瘍に対するオゾンナノバブルの応用」「重症感染性褥瘡に対するオゾンナノバブルの応用」について、有用なる効果を発表した。
 九州大学の大平猛教授は内視鏡手術で、マイクロバブルとナノバブルを殺菌洗浄剤として併用しながら救急医療や消化器がんの治療に応用していることを報告した。新しい時代に向けて医療も確実に前進している事が感じられた一日であった。

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【2013年】
一隅に輝く病院をめざして(大分合同新聞夕刊 2013.12.4)

 去る11月17日、別府市のビーコンプラザで筆者が会長を務める第31回大分県病院学会が「一隅に輝く病院をめざして」のテーマで、2600人が参加して開催された。特別講演を予定していた塩屋俊監督の急逝のため、筆者が代わりに監督の思いと災害医療について講演した。遺作となった舞台劇「HIKOBAE(ひこばえ)」で監督が言いたかったことは、人間の尊厳を守り、患者を守り、絆を深め、多くの人々と連携することの重要性であったと思われた。
 筆者と中津ロータリークラブが支援する宮城県塩釜市のリーダーの一人である矢部亨氏が、当院の現地物産消費支援バーベキューで語った「人の絆こそ最強の堤防です。必ず復興して見せます」の言葉の重みこそ、劇のテーマ「ひこばえ」であろう。榎本由之宮司によると豊後高田市の山神社では、火災で焼けたタブノキが”ひこばえ”から10年で見事に再生したという。熊谷航氏の「神社は警告する」の中では、多くの神社の鎮守の森・タブノキの所で津波が止まっているという。
 厳しい医療介護情勢の中、県下の100を超える病院が一隅を照らし、一隅に輝く病院をめざして”水滴が岩をもうがつ”努力を続けている現状の発表が続いた。たくましいタブノキとその”ひこばえ”のような病院であり続けたいものである。塩屋監督のご冥福を祈ります。

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マンダラゲの会開催さる(大分合同新聞夕刊 2013.10.30)

 10月19日、恒例の「マンダラゲの会」が中津市の大江医科資料館の薬草園の手入れから始まった。華岡青洲が世界で最初に考案した全身麻酔薬「通仙散」の主要成分であるマンダラゲの花も今年はよく繁茂しており、夏には清らかな白色の花が訪れた人々の目を楽しませてくれた。別の場所で育ててきたトリカブトも気品ある紫色の花が満開寸前であった
 薬草の手入れが終わると場所を黒田官兵衛の弟から20代目に当たる黒田義照住職の西蓮寺の本堂に移し、大分大学名誉教授、立命館アジア太平洋大学孔子学院院長・神戸輝夫先生による「三浦安貞(梅園)と中津」と題する講演が行われた。梅園が中津藩文学者藤田敬所に学ぶために1739年以来、たびたび中津を訪問して多くの中津人と交遊したことは前回の講演でもお話しされたが、今回は賀来元龍(子登)という豊後町で酒屋を営みながら敬所に学び、著書も30数冊に及んだという学者との交際についてお話された。梅園とはよほど馬が合ったらしく酒を酌み交わし、文通しながら多くの漢詩をお互いに交換したという。梅園がいかに元龍のことを思い、中津の人々との交遊を楽しみにしていたかがよく分かった。
 この後、金色温泉にて大江薬草風呂で汗を流し、前野良沢が愛好した「一節截(ひとよぎり)」という笛とケーナが演奏され、秋の夜長を楽しんだ。

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塩屋俊監督とHIKOBAE(大分合同新聞夕刊 2013.10.2)

 去る8月10日、臼杵市出身の映画監督・塩屋俊(本名・智章)をしのぶ会が、監督の新しい活動予定地であった国東市国東町のアストくにさきでしめやかに営まれた。献花台には遺作となった舞台劇「HIKOBAE(ひこばえ)」にちなんだ樹木の切り株やその根元から出る若葉”ひこばえ”が設置されており、監督の思いと面影が、ひしひしと胸に迫ってくる思いがした。
 監督は慶応義塾大学を卒業後、56本のテレビドラマ、17本の映画に俳優として出演し、映画監督としても6本の映画を製作した。1994年からアクターズクリニックを主宰。演出を通して演劇人材の育成を図り、受講生の延べ人数は9千人を超えていたという。臼杵の有機茶の栽培をテーマにした「種まく旅人」は農業を通じて人間愛をおおらかに描いた作品で、中津でも”朱華”主催で上映され大きな反響を呼んだ。
 福島県相馬中央病院の実話を基に東日本大震災の地震と放射能の恐怖の中で必死に住民や入院患者さんを守った病院職員や消防団のことを描いたHIKOBAEは、ニューヨークや福岡などでも上演され多くの観客が感涙にむせびながら歓呼の声を上げていた。11月17日、筆者が会長として別府市で開催する予定の大分県病院学会での特別講演者に、監督が予定されていただけに痛恨の極みである。

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田原淳と中津の解剖史(大分合同新聞夕刊 2013.8.29)

 去る7月27日、大分県立図書館においてNPO法人「ペースメーカーの父・田原淳(たわらすなお)の会」(代表・島田達生大分大学名誉教授)主催の田原淳シンポジウムが開催され、「中津蘭学のパイオニア精神と田原淳」と題してお話をさせていただいた。
 田原淳は1873年大分県国東市安岐町の中嶋定雄の長男として生まれ、中津の開業医田原春塘(しゅんとう)の養子となった。1901年には東京帝国大学を卒業し、2年後にドイツのマーブルグ大学に私費留学した。淳は病理学研究所のアショフ教授の指導と協力の下で、人間と羊の心臓を解剖し、心臓の鼓動の源である刺激伝導系を発見した。この発見は「ノーベル賞を超えた世紀の大業績」と呼ばれ、このおかげで毎年100万人の不整脈患者の命が救われている。
 淳の私費留学の費用を、田畑を売って捻出して支援したのが養父の春塘であることが中津市上宮永の植田家の資料からも判明し、大江医家史料館に展示されている。春塘自身も1889年、火薬業・富永章一郎の献体解剖の筆頭助手を務め、前野良沢、村上玄水といった中津の解剖史に名前を連ねられるほどの並々ならぬ情熱を持っていた医師であったことを示す資料が村上医家史料館に展示されている。
 このように偉大な発見の影には多くの人々の精神的な支えと財政的な支援が必要である。

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国際潜水・高気圧環境医学会に参加(大分合同新聞夕刊 2013.7.26)

 6月13~15日、米国フロリダのオーランドで開かれた第46回国際潜水・高気圧環境医学会に出席した。私は1975年以来ほぼ毎年出席しており、今回は81年から当院で治療してきた515例の潜水病(減圧症)の治療成績について発表した。
 発症から6時間以内の治療事例は94.1%がほぼ良好な治療成績を収めている。しかし中には治療開始が遅れて脊髄麻まひなどを残した事例もある。治療には大型の高気圧酸素治療装置が必要なのだが、日本では潜水病の治療費が欧米のわずか1割の低額医療費のため装置の維持ができず、医療機関が潜水病の治療から次々と撤退している。また潜水病専門の医師も年々減少していて、国内では治療可能施設は極めて少ない。
 米国ではダイバーズアラートネットワークという潜水病治療の全国ネットワークがあり極めて多くの治療施設が運営され、どこで潜水病になっても通知すれば最寄りの施設で即治療可能の組織が出来ている。しかし日本では施設と医師の減少のため治療遅れなどから毎年、潜水事故で約50人のダイバーが死亡している。
 そのためこの危険な職業に対する関心が薄れ、東日本地区の港湾や橋脚などの建設現場では、プロダイバーの不足が深刻な問題となっている。ダイバーが潜水病の恐怖から解放され安心して潜水できる環境になってほしいものである。

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トルコの医師たちとの合同セミナー(大分合同新聞夕刊 2013.6.24)

 5月18日、トルコの医師たちとの合同セミナーを京都で開催した。1979年、私が九州労災病院で勤務している時に留学で来日したトルコのトンチ・カリオン医師がこのたび、合同セミナーを希望し、46人もの医師を帯同して来日した。
 日本からは和歌山県立医科大学の田島文博教授、当院から私と川嶌眞之院長代理、徳田一貫理学療法士が講演をした。トルコからはラシャド教授などが講演し、有意義な交流をすることが出来た。カリオン先生は何度かこの欄でも紹介したが、大変な親日家で、在日中の一年間は私たち夫婦がお世話をした関係でそれ以来の長いお付き合いだ。
 トルコ人が特に親日的である理由は、1890年に和歌山県大島村の沖合でトルコの軍艦エルトゥールル号が遭難した時に多くの乗組員を村人が救出し、手厚い看護をした美談がトルコの教科書にも掲載され、今も語り継がれているからだ。以来、トルコは最も親日的な国として知られている。
 28年前、イラン・イラク戦争でイランに取り残された200人の日本人を救出したのはトルコ航空だし、ボスポラス海峡の橋は日本人が建設した。両国は互いに助け合ってきたとかねてカリオン先生から聞かされていた。友好国を増やすことは今後の日本にとって、とても大切なことだとあらためて感じた会合だった。

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東北地方を訪ねて(大分合同新聞夕刊 2013.5.18)

 5月の連休を利用して秋田県の角館と東日本大震災の被災地を訪ねた。期待の角館の桜は少し早かったが、その見事な街並み保存には驚くばかりであった。特に角館歴史村・青柳家には「解体新書」の解剖付図を描いた小田野直武(1749~1780)の史料と人生の足跡と胸像が展示されており、大いに興味をそそられた。
 1773年、銅山の開発のために幕府から派遣されていた平賀源内は直武に西洋画法を指導し、さらに江戸に招いて、中津藩の前野良沢らが苦心して翻訳した「解体新書」の解剖付図を描かせた。直武は「バルトリン解剖書」など幾つかの解剖書を参考にしており、医学知識がない直武が、良沢らの欲している解剖図をどう描くかという感性的理解は、見事というほかはない。
 街並み探訪の後は芸術村の温泉に一泊して汗を流し、わらび劇場でミュージカル「幕末ガール~ドクトルおイネ物語」を、四国に続き2度目の感動に浸りながら観劇した。さまざまな困難を乗り越えてゆく“おイネ”の生き方は、被災地の人々の魂を揺すぶり希望を与えているようである。
 帰りは岩手県宮古市、山田町、大槌町、釜石市の被災地を訪ね、復興がなかなか進まぬ状況の中で懸命に生きている復興商店街路の人々と交流した。宮城県塩釜支援のバーベキューを行ってきたが、今後も続ける必要性を感じた。

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ドクトルおイネ物語(大分合同新聞夕刊 2013.4.16)

 去る3月9日、日本高気圧環境・潜水医学会中国四国地方会で「最近の高気圧酸素治療と高気圧医学」について講演する機会があり、久しぶりに愛媛県松山市を訪れた。松山は正岡子規の“子規堂”など文化施設が多く、訪問する度に感銘を受けることが多い。今回は隣接する東温市のショッピングセンターや温泉施設の一角にある坊ちゃん劇場で上演されていたミュージカル「幕末ガール~ドクトルおイネ物語」を観劇することができた。
 1829年、オランダ商館医シーボルトは娘イネをまな弟子の二宮敬作に託して長崎を去った。敬作はイネを故郷の宇和島藩卯之町に呼び寄せ、開業の傍らイネに医師としての修業をさせた。イネは岡山の石井宗謙の下で産科医としての修業をし、宗謙との間に“たか”とい娘を産んだ。イネはその後も敬作の下で修業し、長崎で開業したが、青い目の女医として批判にさらされることも多く、宗謙の長男信義の世話で1870年、東京で開業した。宗謙と適塾で親しかった福沢諭吉はイネの境遇に同情して1873年、宮内庁御用掛に推薦し、イネは明治天皇の若宮の出産に立ち会った。
 女医としてのイネのたくましい生き方がこのミュージカルによく表現されており、日本に初めて設立された東洋女子歯科医学専門学校2回生の女性歯科医として同様の苦労した母のことが思い起こされた。

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中根家の医業日記より(大分合同新聞夕刊 2013.3.15)

 大分市在住の中根忠之氏のご先祖は岡崎藩本田家の家老・番頭を務め、その膨大な史料が愛知県岡崎市より中根家文書上下2巻として出版されていることで知られている。
 中根家12代目の中根時雄氏は済生学舎を卒業し、1888年に医術開業試験に合格して大分県大字戸原字口ノ林(現中津市耶馬渓町)に開院した。時雄氏は、熱傷の治療で有名になり、患者は、下毛郡はもとより、玖珠郡、日田市、築上郡からも押し寄せるようになった。
 時雄氏はきちょうめんな性格から、1890年10月28日から1936年10月31日までの詳細な日記を「家事雑誌」として書き残している。この日記を読むと天然痘、はしか、インフルエンザ、赤痢、梅毒、コレラなど感染症の記事が繰り返し出てくる。特に1918年のスペイン風邪の大流行では毎晩午前3時、時には夜を徹して診療したと記されている。
 昔も今も感染症は最前線の医師にとって最大のテーマの一つであり、神経を擦り減らして闘っている。しかし、感染症で亡くなると、あたかも医師の責任のように報道される昨今の現状はいかがなものか。ノロウィルスやインフルエンザなどの完全予防は不可能で、特に衰弱した高齢者が罹患した時には、極めて厳しい事態になることを理解して欲しいものである。

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二豊マイクロ・ナノバブル学会を主催して(大分合同新聞夕刊 2013.2.6)

 去る1月19日、当院で二豊マイクロ・ナノバブル学会が開かれ、ナノテクノロジーの医療分野における研究発表が活発に行われた。
 日本マイクロ・ナノバブル学会会長である東京医科歯科大学の眞野喜洋名誉教授は酸素やオゾンガスを超高熱、超高圧で衝撃を与えるとナノバブルが発生し、さまざまな薬理効果を持つようになることを発表した。その作用は組織の温存、修復、再生作用に加え、殺菌作用も有する液体として水産、農業、医療分野にも応用できるという。
 発生してもすぐ消滅する従来のマイクロバブル水と比較するとナノバブル水は9ヵ月以上も安定して効力を持続する。産業技術研究所の高橋正好主任研究員は安定化の理由はナノバブルの周囲にイオンの殻ができるためだという。ナノバブルは多くの細菌やウィルスを強力に破壊するが正常な組織にほとんど毒性がないことを、東京医科歯科大学の荒川真一教授が細菌学的研究として述べた。
 宇宙航空研究開発機構の嶋田和人医長は宇宙ステーション内の飲料水や冷却水にすることを検討しているという。大分大学の河野憲司教授は顎骨壊死(えし)・骨髄炎への応用を、当院の川嶌眞之副院長は骨髄炎や難治性潰瘍への応用の可能性を述べた。正月明けに夢に満ちた学会を開催できたことをうれしく思った。

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【2012年】
「日本の静かなる山」米国で出版さる(大分合同新聞夕刊 2012.12.27)

 1945年5月7日、中津の八面山上空で、小月航空基地から飛び立った日本の戦闘機に体当たりされた米軍爆撃機B29が空中分解し、乗員11人中3人がパラシュートで脱出した。生存者は村人たちに人道的に扱われ、中津警察署長は引き渡しを要求してきた日本軍の将校たちを説得して、生存した乗員は憲兵隊に渡された。
 この生存者たちが福岡空襲のさなかに殺されてしまった悲劇について調べていた米国人から調査を依頼され、昨年の12月、八面山平和公園の保存管理をされている楠木正一氏のご協力を得て、周辺の写真や史料を英訳して送ったことがある。その米国人、ウィスコンシン州のマイク・バーグ氏から、『B29の乗員たちと日本の静かなる山』という本が送られてきた。
 バーク氏はこの本を書いた目的を「古い傷口を開くためでもなく日米両国を責めるためでもない。むしろ、戦争のさなかでも人道的であることを忘れなかった人々がいたことを伝えるため、また何百マイルも離れたはるか遠くから海を越え、恐怖に打ち勝ちながら飛び立っていった若者たちのことを伝えるために書いた」と述べ、そして氏は個々の乗員たちのことも紹介し、その最期についても記述。さらに楠木正義氏が土地を提供し、日米双方の働きで平和公園と資料館が造られたことも記載している。

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スウェーデンの医療(大分合同新聞夕刊 2012.11.24)

 筆者が2008年に中津で主催した日米宇宙・潜水・高気圧環境合同学会が今回は東京で開催されることになり、スウェーデンの高気圧環境医学会会長で、ノーベル賞委員会があることで高名なカロリンスカ大学病院のフォルケ・リンド博士を、中津ロータリークラブと二豊整形外科フォーラムに招待して、スウェーデンの医療福祉政策や高気圧酸素医療の現状を講演していただいた。
 この病院の高気圧治療室は三つの部屋に分かれ、集中治療室が内部に作られており、ガス壊疽(えそ)や壊死(えし)性筋膜炎、コンパートメント症候群、一酸化炭素中毒や骨髄炎、糖尿病性足潰瘍などの治療が行われているとのことであった。巨大な高気圧治療装置に驚くばかりであるが、日本の3倍以上の医療費にもかかわらず、患者負担もないとのことであった。
 所得税が60%、消費税が25%と高いのもうなずけるが、安心して医療や介護が受けられるために国民の消費意欲も高く、医療産業が発達しているために経済が順調に伸びており、国の債務もGDPの30%しかないということであった。国民が政府を信頼しているため、1947年から国民総背番号制度がとられているとのことであった。
 今後の日本の針路を考えるにあたって、一つの参考になる国のようである。

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増加する腰痛と下肢のしびれ(大分合同新聞夕刊 2012.10.23)

 近年、腰痛と下肢のしびれを訴える患者さんが増加している。若い人の場合は腰椎椎間板ヘルニアが原因となっているものが多く、近年の研究では90%の人が保存的に治癒する。
 問題は高齢者に多く見られる脊柱管狭窄(きょうさく)症である。間欠跛行(はこう)という症状が特徴で、歩いていると下肢がしびれてきて次第に前かがみになって、しばらく休んでからようやく歩けるようになる。椎間板の変性が進行している高齢者に手術しても、間欠跛行は取れてもしびれが取れないと訴える。
 東京医科歯科大学の整形外科医である加藤剛医師らのグループは、高気圧酸素治療群とこの治療を行わない群に分けて治療したところ、高気圧酸素治療群に有意に改善を見たという。特にしびれを訴える群では手術に至ることが少なく、経過も短縮されたという。
 これ以外にも運動療法や神経根ブロックでかなりの人が保存的に治っているという報告が続いている。特に運動療法はストレッチングや筋力強化を通じて姿勢を正しくし、腰の負担を軽くして腰痛やしびれを緩和することが認められており、さまざまな学会で報告が続いている。
 保存的な治療を究め、手術治療の適応を科学的に、適切に絞ってゆくことが医療費の節約にもなるし、患者さんのためもなると思われる。

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耶馬渓集中豪雨と岡田医院(大分合同新聞夕刊 2012.9.20)

 今年の梅雨は7月に入って、3、12、13、14日と記録的な豪雨となり、後に九州北部豪雨と名付けられ、各地に大水害を引き起こした。中津市の本耶馬渓町、耶馬溪町も度重なる豪雨によって河川が氾濫し、大きな被害を受けたことがマスコミでも報道された。そのような中で日本各地からお見舞のメールや手紙が寄せられ、あらためて全国の方々のご支援に感謝する。
 そんなある日、京都の岡田医院の水野融院長から30万円もの水害見舞金が送られてきた。融院長の父上である故岡田安弘先生は、この欄でもかって紹介したように、奥平昌高中津藩主が創立した藩校進脩館の初代教授だった倉成龍渚の子孫である。
 龍渚は耶馬渓を天下に知らしめた頼山陽の『耶馬溪図巻記』に先立つこと25年前に、羅漢寺や周辺の山水を紹介した「耆闍崛山記(ぎしゃくつせんき)』という長大な巻物を書き残した。この巻物は岡田先生のご厚意で昨年、耶馬渓風物館に展示され、現在は複製が展示されている。山陽がこの巻物を読んで耶馬渓を訪れ、その景観に驚き天下に紹介したといわれている。
 先祖の記録した名勝耶馬渓の復興を祈って、この度の大水害に岡田医院から送られてきた見舞金に、当院の患者さんや職員からの義援金を一緒にして、新貝正勝市長に届けることができてほっとしたところである。

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米国フェニックスの学会にて(大分合同新聞夕刊 2012.8.18)

 去る6月21~23日の期間、米国アリゾナ州フェニックス市において開催された国際潜水・高気圧環境医学会に出席した。
 米国南西部アリゾナ州のソノラン砂漠の真ん中に、全米で5番目に多い156万人もの人口を抱える巨大都市があることにまず驚かされた。野球、フットボール、バスケットボールと季節によってさまざまなプロスポーツが楽しめるということで、40度を超える厚い砂漠気候にもかかわらず多くの観光客が訪れていた。
 このような砂漠に2千年も前から運河を造り、農業を営んできた先住民族(ネーティブアメリカン)のアートや歴史を紹介する全米屈指のハード美術館には、部族ごとの生活、日常品、楽器、手工芸品が展示されている。この地域の発展は、かれらの長年にわたる努力の上に築かれたものであることがよく分かるようになっている。西部劇で悪者のように取り扱われていた先住民たちが、いかに優れた文化を持ち、家族や部族の絆を大切にしてきた民族であるかを事細かに解説している。特に木製のフルートは日本の尺八のような音がでるため、楽譜とCDも併せて購入してきた。
 長年の「潜水病と骨壊死(えし)」の研究が報われ、この学会で“国際潜水医学学術賞”と“特別名誉会員賞”を授与されたことが、なによりも嬉しいことであった。

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被災地塩釜を訪ねて(大分合同新聞夕刊 2012.6.25)

 中津ロータリークラブの姉妹クラブである山形南ロータリークラブの創立40周年記念式典参加を機会に、5月二20日、中津ロータリークラブのメンバー12人と宮城県塩釜市の被災地を訪問した。
 中津ロータリークラブの川原田和広会長から、ニコニコ募金一年分が塩釜ロータリークラブの斎藤眞三会長に手渡された。沈没したフェリーの代替船として活躍している中古フェリーの運転資金の一部に活用されるとのことであった。
 災害復興のリーダーの一人、塩釜青年会議所OBの矢部亨氏に現地の被災状況を詳細に案内していただいた。この一年間でガレキは撤去され、海岸沿いにうず高く山積みされていたが、低地の商店街を含めて海岸沿いのほとんどの建物は津波によって破壊消失し、まだまだ復興には到底及んでいない状態であった。
 ここから仙台空港までの平野は、どこまでいっても大空襲の焼け跡のような荒涼たる景色が続いており、まさに息を飲む思いでいっぱいになった。矢部氏は「海を恨まず、海に逆らわず、なんとか高台に早く逃げられるような復興にしたい」と述べていた。
 矢部氏と話していると前野良沢の「自然を恐れ、敬い、自然に従う」という思想と福沢諭吉の「独立自尊」の精神が今こそ生かされるような気がしてならなかった。

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上海・北京にて講演(大分合同新聞夕刊 2012.6.1)

 先のゴールデンウィークに息子の眞之副理事長とともに中国で講演する機会を得た。上海交通大学では筆者が「潜水病と骨壊死、日本における最新の高気圧酸素治療の現状」、眞之は東京医科歯科大学・眞野喜洋名誉教授との共同研究「酸素・オゾンナノバブルの基礎的、臨床的研究」を講演した。
 中国ではチベットの5,000メートルもの高地ダムでの潜水や三〇〇メートルを超える深海潜水の実験が行われており、骨壊死の研究はこれからであるという。相互の研究成果の有益な意見交換ができて今後のさらなる共同研究の模索をすることが話し合われた。
 北京ではガオ教授が主催するアジア・太平洋潜水・高気圧環境医学会の設立会議があった。中国ではすでに5,000基を超す高気圧酸素治療装置が全国に設置されており、中国各地の代表やオーストラリア、マレーシア、インド、台湾の代表も参加していた。早朝から夕方まで、設立条文や学会規則を一字一句皆の意見を聴きながらまとめてゆく気長さと民主的運営には驚くばかりであった。
 長時間に及ぶ議論の末ようやく学会の設立が宣言され、最初の学会を青島(ちんたお)で開催することが決定し、日本からも6名の役員が入ることになった。最後に眞之が「ナノバブル」の英語講演を行ったときには、参加者全員くたくたになっていたようである。

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マンダラゲの会と村上玄水(大分合同新聞夕刊 2012.4.28)

 筆者が会長を務める、大江医家史料館の裏庭にある薬草園の運営から始まった、マンダラゲの会も今年で8年目になる。4月15日、その薬草園に約20種類の薬草を植栽し、隣接する東林寺にある村上玄水の墓にお参りした後、1819(文政2)年、玄水が59名の医師たちの見守る中で行った人体解剖の記録を村上医家史料館で見学した。
 その後、桜の花びらが舞い散るうららかな城下町を散策して着いた村上家ゆかりの童心会館で、九州大学名誉教授ヴォルフガング・ミヒェル先生の「村上玄水とその時代」という講演会が開催された。2002(平成14)年以来、中津の歴史、蘭学資料を調査解読し、多くの本を出版してこられた先生ならばこその迫力ある講演であった。
 玄水は藩校進脩館にて倉成龍渚、野本雪厳の漢学指導を受けた。玄水のすごさは生涯にわたるその勉強ぶりである。まず久留米で兵法・軍学を学び、長崎で蘭学、天文学、地理学を学ぶ。玄水は解剖にあたっても入念な準備を行い、たった一日で行った解剖には中津城下のみならず、遠くは大阪から坂金吾という医師が見学に来ている。
 解剖は中津藩の画員が彩色入りで解剖図を描き、玄水は「解剖図説」という解剖の記録を執筆し、序文は日出の帆足萬里が書いている。

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田中信平の伝承料理を復元(大分合同新聞夕刊 2012.3.23)

 筆者が会長を務めている中津文化財協議会主催で、毎月一回開催している文化講演会が2月17日、サンリブ(JR中津駅前)2階研修室で行われた。
 その後、豊後町の“朱華(しゅか)”で田中信平(1748~1824)の伝承料理を食べながら役員会が行われた。ちょうどひな祭りの時季にふさわしいカラフルな料理に一同、舌鼓を打った。江戸時代の文政年間に、このような芸術的な日本料理が中津で作られていたことに、みな大いに感動した。
 田中信平は通称“田信(でんしん)”と呼ばれ、蘭方外科医として中津市京町南部公民館付近で日常診療をする傍ら、料理や書画などの世界で広く活躍した文化人であった。
 筆者は恩師松山均先生と一緒に、寺町大法寺の墓地で、天然痘で死去した辛島正庵の長男、章司の墓に『七十一翁 田信子孚(しふ)』の文字を見つけたことから、関心を持つにいたった。
 田信は1784年には長崎に留学して「卓子式(たくししき)」という卓袱(しっぽく)料理書を出版した。その本で中津にケンチンやカステラなどのお菓子を紹介し、今日にいたっている。 耶馬渓を全国に紹介した頼山陽や倉成龍渚(りゅうしょ)など天下の文化人との交友が広くあったことは、長谷川保則氏著の「田信傳」にも記載されている。墓は寺町本傳寺にある。

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倉成龍渚と頼山陽(大分合同新聞夕刊 2012.2.20)

 昨年10月15日から12月18日まで、中津市の耶馬渓風物館で「羅漢寺展」が開催された。
 羅漢寺の石仏群が南北朝期の中国と日本の文化交流を示すものとして明らかにされたこと、1943(昭和18)年の火災を免れた仏画などの宝物が室町幕府の管領細川頼之によって奉納されたものであることなど、羅漢寺の歴史的価値の大きさ示す貴重な展覧会であった。
 同時に展示されたのは、中津藩儒、倉成龍渚(くらなりりゅうしょ)のご子孫である京都の医師、岡田安弘氏蔵の「耆闍崛山記(ぎしゃくつせんき)」と頼山陽の「耶馬渓図巻記」。
 耶馬渓の自然の美しさを、龍渚が江戸で山陽の父、頼春水や細川平洲などの文化人に紹介したところ、この文章をみた山陽が耶馬渓を天下無双の景として広く紹介したことを証明するに足る、優れた対照展示となっていた。
 龍渚はこれを機に平洲の弟子、米沢藩主上杉鷹山にも招請されて儒学を講じ、ますます学者としての名声を高めた。中津藩主奥平昌高は藩校進脩館を創設し、龍渚を初代教授として迎え、中津藩士のみならず全国からその声望を慕って勉学に来た人々を歓迎した。
 岡田氏この展示会を楽しみにしながら直前に亡くなられたことは誠に残念なことで、心から哀悼の意を表明したい。

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八面山と戦争(大分合同新聞夕刊 2012.1.11)

 毎年、12月8日になると、真珠湾攻撃の犠牲者追悼のニュースがマスコミに報道される。
 折しも、米国・ウィスコンシン州のマイク・バーグ氏という方から「1945年5月7日、八面山で撃墜されたB29”エンパイヤー・エクスプレス”について研究しているので、乗員の写真などを資料として送ってほしい」というEメールが届いた。
 毎年行われている八面山平和公園の慰霊祭に、戦死者であったルイズ・バルサー軍曹のご子息ジェリー・バルサー氏が、2005年5月に参加されたことを覚えているが、その時にお世話したバルサー氏から筆者のことを聞いての依頼だった。
 さっそく、平和公園の保存活動を続けておられる楠木正一氏から平和公園資料館の写真や資料の説明を受けたが、あらためて日米の戦死者の若々しい顔に強く胸を打たれた。「屠龍」という戦闘機で体当たりして戦死した村田勉曹長(当時27歳)の遺書も、涙なしには読めない。
 平和公園にある戦死者たち11人の出身の各州から送られてきた石のモニュメントや、墜落地点の記念碑や記念樹の写真に英語の説明をつけて送ったところ、丁寧なお礼の手紙が届いた。近いうちに本にして米国で出版されるとのことであった。
 戦争や災害の重さが、ずしっときた年末であった。

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【2011年】
大分県病院学会を開催(大分合同新聞夕刊 2011.12.2)

 去る11月20日、別府市のビーコンプラザで筆者が会長を務める第29回大分県病院学会が、2,500人の医療関係者が参集する中で開催された。
 特別講演は、4つの病院団体のリーダーでもある全日本病院協会の西澤寬俊会長で、「全日本病院協会の今後の活動方針と医療情勢』と題して、詳細に分かりやすく2025年までの医療の展望と問題点について述べられた。
 予想される超少子高齢社会に対応するために「病院のあり方に関する報告書」を1998年以来6版発刊し、理想的な医療介護の在り方と社会変化を踏まえた現実的対応を行うべきことを強調された。
 大分県病院協会からは「国際的にも患者負担率の高い中で、さらに外来受診ごとに定額負担をさせることに反対する。本来は最終消費者が支払うべき消費税を医療機関が総収入の平均で2.2%も支払っている現状で、消費税が10%になれば医療崩壊に拍車がかかるので、診療報酬に原則課税すべきである」という決議文が西澤会長に手渡された。  続いて、東日本大震災で支援活動を行った県下の4人の方々の迫力ある現状報告や、今後の災害医療についてのシンポジウムが開催された。午後からは医療介護の安全・サービス向上・システム改善の活発な報告も行われた。

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三浦梅園と藤田敬所(大分合同新聞夕刊 2011.11.1)

 中津市鷹匠町の東林寺という禅寺に土居震發(どいしんぱつ)という漢学者の墓がある。京都の伊藤東涯の弟子で、丹後宮津で奥平侯の侍讀(じとう)となり1717年、奥平昌成の中津藩への転封に従って中津に移住、中津漢学の開祖ともいえる人物である。
 最も高名な弟子として藤田敬所が知られている。敬所の学問は京都古学派の流れをくみ、僧侶、医師、市井の学徒に至るまで、多くの人々がその学風を慕って集まるようになった。
 1752年には中津藩の文学教授に任じられるほどの名声を得た。門人の一人に、昨年「マンダラゲの会」で取り上げた倉成龍渚(りゅうしょ)がいる。奥平昌高侯が創設した藩校「進脩館」の初代教授で、その特別展が近日中に羅漢寺の「風物館」で開催されるという。
 もう一人の門人に杵築の医師で哲学者として高名な三浦梅園がいる。梅園は17歳の時に30日間、4年後に30日間、敬所の所で学び、「花を育て楽しむように、子供を引っ張っていく。なお春の日のように暖かく、秋の露のように厳しいものがさまざまと思いだされる」と後に述べている。
 今月12日、大江医家史料館にて「マンダラゲの会」が開催され、立命館アジア太平洋大学孔子学院院長の神戸輝夫氏(大分大学名誉教授)が「三浦梅園と藤田敬所」について講演されることになっている。

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プラハで感じたこと(大分合同新聞夕刊 2011.10.1)

 去る9月上旬、チェコのプラハであった国際整形災害外科学会に出席した。プラハはボヘミア王国の首都で、9世紀半ばから城の建築が始まり、特に1348年、神聖ローマ皇帝に就任したカレル4世の治世に現在の美しい城下町がほぼ整えられた。
 第2次世界大戦でもそれほどの被害がなく、町全体が世界遺産になって世界中から観光客が集まっていた。学会でもボヘミアのフォークダンスが開会式で披露され、1968年の「プラハの春」以来、自由と民主主義の国を目指して、困難な闘いと国民の努力があったことが強調された。
 友人のクルーガ―博士の案内で市内を巡ったり、医療情勢や社会情勢を詳しく知ることができた。医療費の患者負担は極めて低く、その代わりに消費税が19%ということであった。
 その前の8月21日にあった、日本医師会と4病院団体協議会による「医療と消費税」をテーマとした市民公開セミナーを思い出した。
 日本では病院が検査器などを“仕入れる”際に課税される消費税を、患者さんが支払う診療報酬に転嫁できない仕組み。従って現行5%の消費税率でも受け取る診療報酬全体額の2.2%に相当する額を病院が負担している。社会保障を拡充するという名目で仕組みを変えないで10%に上げれば、病院の負担が増し、医療崩壊にさらに拍車がかかるという話をきいてぞっとした。

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前野良沢と一節截(大分合同新聞夕刊 2011.8.30)

 中津藩医・前野良沢(1723~1803)が盟主となって西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』は、真の意味で、蘭学の幕開けであり、日本の科学史はここに始ったといっても言い過ぎではない。
 良沢は伯父の淀藩医・宮田全沢に「世の中で廃れそうな芸能を大切に保存して末々までも絶やさぬようにすべき」と訓育され、当時廃れていた「一節截(ひとよぎり)」という竹笛を練習して、宗勲流の名手となり、同じ中津藩の武士でいとこの簗(やな)次正に伝授した。
 この笛は次正から、さらに中津藩の神谷潤亭という医師に伝授され、中津で普及したものとみられ、簗家に1本、村上医家史料館に4本残っている。一節截は尺八よりも細く、吹き口はケーナとよく似ているが、前穴は4穴、後穴は1穴である。
 奈良朝時代に中国より伝来し、安土・桃山時代に大森宗勲が大いに広め、江戸初期に流行したが、尺八の流行で廃れてしまっていた。このたび千葉県柏市の一節截研究家・相良保之氏が当院で開催されている一節截の練習会を訪れ、1664年に著された中村宗三の書『糸竹(しちく)初心集』」という邦楽の入門独習書をくださった。その入門書を細田富多氏が解読してはじめて一節截の演奏法が明らかになった。

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九州高気圧環境医学会の成果(大分合同新聞夕刊 2011.7.25)

 去る7月2日、当院の田村裕昭院長を会長として、第12回九州高気圧環境医学会が中津市で開催された。
 上海交通大学の石中教授は、中国では、チベットの5200メートルの高地に造られているダムの管理のために、低圧タンクや実験場所を現地の高度に近付けながら、50メートルの高地潜水に挑戦する実験を行っていると報告。前人未到の高地潜水という未来に懸けるすさまじいエネルギーを感じた。資源やエネルギーの獲得のために多額の研究費が投入されているとのことであった。
 宇宙航空研究開発機構の嶋田和人医師は、NASAの宇宙センターで代々の宇宙飛行士たちの健康管理を行ってきた経験から、宇宙滞在中の医学的問題、その解決法が地上の寝たきり患者を予防することにも応用できるという夢にあふれた講演であった。
 東京医科歯科大学の柳下和慶医師は、今年から保険適応になったコンパートメント症候群(打撲や激しいスポーツで四肢の筋肉が腫脹し、激しい痛みを伴う疾患)に対して、効果的な高気圧酸素治療の原理と研究成果、臨床成績を述べ、さらにスポーツ選手の障害に対しても多くの国際的な研究が行われていることなど、高気圧酸素治療の明るい未来を語った。
 大震災と福島原発で暗い話題が多い中、ひとときの夢あふれる学会であった。

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三陸海岸大津波(大分合同新聞夕刊 2011.6.24)

 去る6月1日、岐阜市で開催されたアジア・太平洋整形外科学会の脊椎・小児整形外科合同学会(清水克時=脊椎、亀ヶ谷真琴=小児各会長)の座長を依頼され、出席してきた。
 開会式は国際学会としては異例の各国の津波災害の報告があった。日本からは、去る3月5日当院の30周年記念であいさつに来られ、帰られた直後に被災された国分正一東北大学名誉教授・西多賀病院院長の東日本大震災の報告があり、インドネシア、マレーシアの代表からは10万人を超す死者を出した大津波の報告があった。
 紹介された外国のテレビ報道は無数に横たわる死体やそれを土中に埋葬するシーンなどが続き、恐るべき大惨事が発生していたことを証明していた。外国の報道に比べると日本の報道は抑制が効いてはいるが、現地にボランティアで行った人から聞く話はリアルで胸に迫るものが多い。
 蘭学の鼻祖、中津藩医前野良沢について「冬の鷹」という歴史小説を著した作家の吉村昭は、日本医史学会でもたびたび講演に呼ばれるほど史実に密着した小説を書くことで知られている。1970年に出版された記録小説「三陸大津波」は無数に襲ってきた津波のすさまじさと、その津波と闘う人々の声を記録している。人間と自然との調和、あつれき、きしみが無言のうちに迫ってくる。

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桜ともみじの里作り(大分合同新聞夕刊 2011.5.24)

 中津市では中津まちづくり協議会理事長で、中津・桜ともみじの会実行委員長の愛宕久和商工会議所会頭をリーダーとして2005年以来、中津市をはじめ、さまざまな団体や個人が、毎年桜ともみじの植樹事業を展開。累計で、桜11,922本、もみじ12,368本になった。
 去る5月15日は大貞総合運動公園周辺に400人を超す参加者が集まり、爽やかな風を受けながら、桜に肥料を施した。
 親子連れや職場の友人たちとにこやかに会話を交わしながら手入れをしている多くの参加者を眺めていると、この2ヶ月間の東日本大震災のすさまじいありさまをしばし忘れた。
 中津ロータリークラブは1994年以来、環境問題シンポジウムや紙のリサイクル、植樹活動に取り組んできた。台風で倒木した薦神社の森にクヌギやカシを植えたり、三沢中学校跡地の大貞公園には中津中央、中津平成ロータリークラブとともに、花の咲く木々を毎年植樹してきた。また、各事業所で鳥が運んできた種から芽を出したものを育てて移植する自然木の実生運動も行ってきた。
 植樹の手入れをしながら、今ほど自然の恵みと猛威を感じる時はないと思った。日本はエネルギー政策や環境問題で最大の転機を迎えつつある。

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東日本大震災に支援を(大分合同新聞夕刊 2011.4.18)

 3月11日、東日本をマグニチュード9.0という巨大地震が襲い、さらに大津波、福島原発の事故という三重苦とのとてつもなく困難な闘いが行われている。
2万7000人を超した死者・行方不明者と、数十万人ともいわれる被災者の方々のことを考えると、何を書いてよいやら言葉を失うのみである。
 東日本各地で忍耐強く復旧に当たっている自衛隊、消防隊、警察、政府や自治体の職員、発電所の作業員、内外からのボランティアの方々には心から敬意を表したい。
 中津ロータリークラブでは安藤元博会長の指揮の下に細川唯、中野登会員が商工会議所、青年会議所と連携し、市民にも呼びかけた。段ボール400箱分の食糧、衣類、水などをトラックに詰め込み、矢崎和広会員ら5人が交代して運転し、現地に届けて3月30日にその報告会があった。
 現地は想像を絶する被災状況だったという。ライフラインはなんとか確保されつつあるが、避難場所における衛生環境の悪化、感染症の増加、医薬品の不足などが報告されており、一日でも早い復旧と復興を願うのみである。
 いまこそ国民が心を一つにして叡智と勇気をしぼって、この苦難を乗り越えよう。

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創立30周年と恩師の教え(大分合同新聞夕刊 2011.3.15)

 1981年3月5日、くしくも1771年中津藩医前野良沢が江戸・築地の中津藩中屋敷(現在の聖路加病院)で「ターヘル・アナトミア」の翻訳を開始したのと同じ日に、わずか15名のスタッフとともに、当院(川嶌丸)は船出した。
 まさに、杉田玄白が「蘭学事始」の中で述べたように「艪舵無き船が大海に出でし」状態であった。その時に筆者を支えて下さったのは恩師、天児民和九州大学名誉教授(前九州労災病院院長)であった。「開業するならば、今までの研究が活かされるような世界水準の医療をやってみたらどうか」と、たびたび当院を訪れて下さり励ましてくださった。
 開業しながら毎年国際学会に発表したり、日本骨・関節感染症学会、日本高気圧環境・潜水医学会、日本医史学会、日米宇宙・潜水・高気圧環境医学合同学会などの学会を主催してきたことは、今や300人を超えた職員にとっても大変なハードワークであった。
 このたび3月5、6日の創立30周年記念行事に、お客さんを内外から大勢迎えて思ったことは、困難な道であっても志を貫くこと、人と人の絆を大切にすること、地域社会に奉仕することの重要性であった。

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医師不足をどうするか?(大分合同新聞夕刊 2011.2.25)

 去る1月28日、九州各県と岡山、広島、山口各県の病院協会の役員が出席する連絡協議会に出席した。どの県の代表も当面する課題が医師不足の話題であった。
 1983年以来、医療費と医師数の抑制がはかられた結果、医療費は先進7カ国中で最下位、医師の数もOECD(経済協力開発機構)に加盟する30カ国中27位というありさまである。国は医師数の増加、医療費の自然増を認めるという方針転換を行っているが、現在のところ焼け石に水である。
 人口10万人あたりの医師数を見ると、東京、京都、福岡では260人から280人もいるが埼玉、茨城県では134人、150人と極端に少ない。せっかく地方に医大ができたにもかかわらず、初期臨床研修制度が施行されて以来、卒業生の6~7割が都会の病院に行ってしまい、地方はあいかわらずの医師不足である。日本医師会の中川俊男副会長は地域の大学を中心に8年かけて地域で医師を育てようと提案している。
 大分県内129民間病院の9割が加入している大分県病院協会傘下の病院も、魅力ある研修カリキュラムを作って、県内で頑張る医師の育成に協力したい。3月12日には県医師会館にて公開講座も企画している。

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羅漢寺と倉成龍渚(大分合同新聞夕刊 2011.1.12)

去る十一月十三日、中津市鷹匠町の東林寺で開催された「マンダラゲの会」にて、神戸輝夫大分大学名誉教授の特別講演があり、中津藩校進脩館初代教授であった倉成龍渚(くらなりりゅうしょ)こそ耶馬渓を天下に紹介した最初の学者であると述べられた。
龍渚は一七九四年、羅漢寺周辺を訪れ、「耆闍崛(ぎしゃくつ)山記」を書いて翌年、江戸に赴き、親交のあった頼春水などに見せたという。春水は当然、その息子頼山陽にも見せたと思われ、山陽はのちに耶馬渓を訪れた時に「耶馬渓図巻記」の中で実在する山水の世界こそ耆闍崛山(羅漢寺)であると述べ、天下無双の景観として耶馬渓を讃えている。
「耆闍崛山記」の実物を京都在住の医師、龍渚のご子孫である岡田安弘氏が当日持参しており、会場に展示されたその長大な巻物に参加者は圧倒され、口ぐちに感動の言葉が交わした。年末に地元の中島和貴氏、河野博昭氏のご案内で羅漢寺を訪れ、あらためてその壮大なる自然と風景に溶け込み、奥深い歴史を秘めた羅漢寺の素晴らしさに一同感動を覚えた。
中津の村上医家九代目の田長が玖珠の村上作夫らと「水雲館」という私塾を羅漢寺の指月庵跡に創設。「鎮西義塾」へと発展させた理由はこの羅漢寺の景観と歴史に根差していたことをあらためて感じた訪問であった。

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